指先で考える.

日本在住の某Ph.D studentが,気づきをまとめる場所.

「身体の勝手」にさせてみる

 気になる課題の一つである「無意識」について.

 

 テクノロジーが生活基盤になっている現代では,「意識出来ること」に大きな価値が置かれているように思う.「理由は分からないけれど/意識には起こせないけれど/言語化できないけれど,~してみれば?」など到底受け入れない.けれども,そもそも「意識(言語)で捉えられる事柄なんて,この世界のほんの一部でしょ?」が私の基本スタンスである.あなたは,あなたのその手の形も,足の大きさも,声質も,目の大きさも,全部自分で意識して,そのように作ったんですか? それらは,ひとりでに(無意識のうちに)そうなったに決まっている.私たちは,自分の身体の働きについてすら,ほとんどなにも意識していない.だとすれば,「意識出来る」わずかなことだけでやりくりするのもいいけれど,「意識出来ていない「身体の働き」」=「無意識の働き」にももっと目を向けて,信用して,もっと使ってあげたっていいじゃないだろうか.

 

 「無意識の働き」を無視している典型的なケースは,「睡眠時間を削って頑張ること」だと思う.学生の徹夜のテスト勉強が一番分かりやすい(ただ,学生以降も,ほとんどこの考え方から抜け出せていない人は多いと思う.そして大抵,年齢からくる体力的限界がきて徹夜出来なくり,仕方なく睡眠時間を確保するに至っている,のでは?)特に,脳をフル活用すべき仕事についている人(たとえば研究者)にとって,これが適切なやり方であるはずがない.個人的に知った事だが,「寝ているときでも,起きているときでも脳の酸素消費量は変わらない(らしい)」のである.僕らの「意識」にかかわらず,脳は働き続けている.けれども,「意識出来ること」に価値を置く現代人にとっては,寝ること=無意識=何もしていない,になってしまう.だから,出来るだけ長い時間起きて,何かをせずにはいられない気分になる.「寝ることは無駄」だと思ってしまう.しかし,少なくとも脳に関しては,寝てようが起きていようが活動量が変わらないのなら,こういう考えた方はナンセンスに思える.

 

 例えば私の日常経験から言って,夜寝る前の自分の考え方と,朝起きたときのそれは随分と異なっているように思うことが多々ある.大抵の場合,夜中に思いついたアイデアは,朝見るとバカバカしく,整理がついていないように思える.少年時代を経験した人なら,夜遅くまで悩んでラブレターを書いてみたけれど,朝読み返してみたら,恥ずかしくて渡せたもんじゃないと思った,なんてこともあったのではないだろうか.夜中と朝で,同じものを見ても(読んでも)全く異なる感想を持つのだから,その時の脳の状態が同じであるはずがない.寝ている間の(無意識の間の)脳の働きが,夜中と朝における違いをもたらしている,と考えてよいのではないだろうか.また,複雑で込み入った問題ほど,朝起きてからの数時間のうちに考えてしまうほうが,良い結果をもたらしてくれることが多いのも,私の実感である.しかし,夕方ぐらいになってくると,露骨に集中力が下がってくる.「意識」であれこれ考えて,脳を使っているうちに,脳の中がとっちらかってくるような感触になるのである.このとっちらかりを整理整頓してくれるのが,睡眠中の脳のお仕事だと感じている.

 

 (<勝手な妄想> この「脳がとっちらかってくる感じ」を,脳科学の観点から言葉で説明せよ,といわれても,たぶん現状では到底無理なんではなかろうか(私は脳科学の専門科ではないことは断っておく).おそらく複雑系に絡んでくる問題な気もするし,現代の複雑系の科学が,人間の身体が感じる「なんとなくこんな感じなんだけれども...」が具体的にどういう状態なのかを記述する術はまだ持っていないと思うし,まだまだ時間がかかると思う.こういう「意識」と「無意識」にまたがったものと,上手に付き合うことを覚える必要があるのではないのか.)

 

 もう一つ,個人的にも,多くの人も使っている方法に,頭をスッキリさせるための運動がある.例えば長時間読書などしてつかれた後,適当な時間ランニングして戻ってくると,随分とリフレッシュした気分になる.完全にとは言わないけれど,かなりRe Startを出来るようになる.個人的にお世話になっている整体師の方が言うには,(個人差は当然あるけれども)デスクワーク系の作業を長時間していると,呼吸が浅く・早くなるらしい.これによって,体内の酸素が若干欠乏気味になり,頭の働きが悪くなる,ということが起きるらしい.ランニングをすると,身体は勝手に(無意識に)酸素を欲しがって深い呼吸をするようになる.要するに息が上がってくる状態である.つまり,十分な酸素を取り込めるような呼吸状態を,ランニングによって強制的に作りだしてしまうのである.これも一つの「無意識の働き」の活用法ではないだろうか.

 

 最後の例として,自分の仕事回りで一つ.実験研究者は,日々手を動かし,身体を動かしながら,仮説を立てて考え,検証している.このとき,「手を動かすこと」と「考えること」はセットでなければならない.著名な研究者ほど,多くの実験を「やってみて」,その結果を「考察して」,次の実験への「仮説構築をして」,という作業を繰り返しているのである.実験研究者に限らず,かの有名な理論物理学者であるR. P. Feynmanも,幼少期からたくさん実験をしてきた人である.数学者も,考えるときは必ず黒板に「書いて」考えているではないか.みんな,全身で考えているんじゃないだうか.

   

 現代人は「脳を使うこと」=「考え事をすること」だと思いこんでいるように思う.でも,そんなわけはない.ランニングをしているとき,手をリズムよく振ろうとするのは脳の指示だろうし,足を動かすのも脳の指示だろう.風を感じる皮膚感覚も,最終的には脳が感じるのである.すなわち,「体を動かすこと」だって立派に「脳を使うこと」である.以上に述べたきたことは,別に新しい行動を提案しているわけではないけれども,普段やっていることに「無意識」の席を用意してあげても良いのでは,ということである.「今からは「無意識」に活躍してもらおう」と思ってやれば,もっと身体とうまく付き合えるような気がする.たかだか数百年の歴史しかない現代語であれこれ頑張ることも大事だけれど,何千年~何万年もの歴史の中で発達してきた「身体の勝手」に任せてみるほうが,いい事も多いに決まっている.

 

2018.8.17 yshnb

 

P.S

「意識」でなんでもやろうとするのは,典型的な「近代思想」な気もする.すなわち,自然界を俯瞰する存在としての「理性」という考えが,背景にあるのかな?